坪木の教育論⑨:素質の呪縛に振り回されるな
学問における「健全な競争」のために避けては通れないテーマがある。大人の誰もが分かっていながら声に出せずにいる真理である。
「素質」の存在だ。
スポーツで言えば、「日本人は、どう頑張ってもウサイン・ボルトにはなれない」ということだ。足の速い・遅いがあるように、背の高い・低いがあるように、数学の得意・不得意という素質の差は厳然とある。それを誤魔化したり、隠したりすると「運動会のかけっこ」になってしまう。大切なのはここからだ。「素質がないから勉強するのは無駄」なのかどうかだ。ウサイン・ボルトは、オリンピックでいくつもの金メダルを取ったヒーローだ。世界中の人々を感動させた。彼は確かに恵まれた素質を持って生まれたと思う。では、人々は彼の素質に感動し、拍手を送ったのだろうか。
我々は彼の100m、10秒にも満たない走りの中に見ているのだ。100分の1秒を縮めるために彼が行ってきた血の滲むような努力、我々にはけっして真似のできない厳しい鍛錬の日々を。もちろん、それを実際に見たわけではないが、彼の圧倒的な走りの向こうに感じ取ることができる。マラソンの高橋選手に感動するのも、柔道のヤワラちゃんに感動するのも…「感動」の源泉はここにある。
例えば身長が3メートルのバスケットボール選手がいたとしよう。彼にボールが渡れば敵はなすすべがない。ゴール下に立ってパスをもらえばすべて得点。チームは連戦連勝……。あなたは、こんな試合に感動するだろうか。何度も見たいと思うだろうか。
背が高いというのは紛れもなく「素質」だ。しかし、素質だけで人を感動させ、行動に駆り立てる力はない。我々は、その背後にある「何か」を見て取る。時としてレベルの高いプロ野球よりも高校野球に感動することがあるのも同じ理由だ。高校野球のほうが、その「何か」が見えやすいのだ。
学問においても理屈は同じだ。取った点数に人は「感心」こそすれ「感動」はしない。その過程に価値がある。80の素質の人が90を目指すのも、50の素質の人が60を目指すのも価値に変わりはない。その10点分の努力に価値があるのであり、その努力が感動を生み、人を動かす。
私は「90点取れるから勉強しなくてもよい」という考え方を否定する。同様に「どうせ50点しか取れないから頑張るのは無駄だ」という考え方も否定する。本当の競争相手は自分自身だ。「健全な競争社会」は、そのことを気付かせるためにも重要なのだ。
また、「子どもが持っている素質の量は誰にも分からない」という当たり前のことも指摘しなければならない。少なからぬ両親(特に父親)から聞かれる台詞がある。
「どうせ、俺の子だからこんなものだろう」
…本当にそうだろうか。世の中には(例えは悪いが)「鳶が鷹を産む例」は枚挙にいとまがない。そうした回りの「決めつけ」が子供の伸びる芽を摘んでいることが往々にして見られる。そして、より重要なことは、素質云々以上に大切なことが存在するということだ。