坪木の教育論④:無責任な社会の教育認識
「夏休みくらい勉強を忘れて伸び伸び過ごせばいいじゃないか!」
したり顔の教育評論家やワイドショーのコメンテーターなる無責任な立場の大人達からしばしば聞かれる台詞(せりふ)である。彼らは言う。「この世には勉強よりも大切なことがある」と。そして、「友達と友情を育むこと」とか「自然と触れ合うこと」をその例として挙げたりする。そう言われると多くの人は感化され、「確かにそうだ」と何となく思ってしまう。
さて、彼等に問おう。「勉強」「友情」「自然」…これらは同じ価値観の元に並べて優先順位を付けるべきものだろうか。優劣を評すべき概念だろうか。その疑問を投じた瞬間、彼らの主張の根底にあるものがいかに脆弱で軽薄なものかが知れる。子供たちにとってはどれも大切なものであり、軽重をもって優先順位付けすべきものではない。少なくとも、「友情」「自然」の大切さが「夏休みに勉強をしない方がいい理由」になり得ないのは明らかである。
耳障りのよい、反論しにくい意見は時として意味をなさないことを知るべきである。学校現場でしばしば聞かれる「命の尊さを教える教育」「人権の大切さを教える教育」等の台詞がその代表だろう。こうした美辞麗句は反論の余地がない。言ってみれば当たり前のことである。それゆえ実効性のない空文になってしまう。「命の尊さを教えましょう」と言われて、いったい何ができるだろう。本来、教育現場で必要なのは実行可能な具体論である。例えば…「命の尊さを教えるために、カエルの解剖を復活させよう」という意見だ。
我々は幼い頃、小動物に対して至極残酷なことを平気でやったものである。しかし、だからこそ自我意識が成長した後、後悔の念と共に死を「実存」と意識する。魚は生きたまま魚屋から台所に運ばれ、母親の手によって捌(さば)かれた。祖父母の最期を自宅で看取ることも普通だった。つまり、日常の中に「死」が共存し、「死」と向き合うことで子供たちは自然と「命の尊さ」を学んだのである。ならば、当時は理科の必須であった「フナの解剖」や「カエルの解剖」を復活させるべきだという主張があってもいい。きっと、動物愛護団体なる博愛主義者から反論が来るに違いない。しかし、そうした反論の余地がある提案しか実行性は無く、議論も前進しないのである。いじめ問題に対して美辞麗句が飛び交う学校現場で、何の解決もされていない現状がそれを証明している。
冒頭の「夏休みくらい…」の意見も耳障りは良く、万人受けするかもしれないが、同様に何の前進も…少なくとも子供の成長には何の貢献もしない主張である。賢明な保護者は、こうした美辞に惑わされてはいけない。