坪木の教育論⑪:夢は破れる、しかし・・・

ところで、我々大人は「夢は諦めなければ叶う」と言うが、それが嘘であることを最もよく知っているのも我々である。子供の頃に抱いた夢を実現させることができるのは、ほんの一握りの選ばれし者だけである。しかし、それでも我々は「夢は叶う」と言い続けなければならない。なぜなら、諦めずに努力を続けた者だけに「ブレイク・スルー」は訪れるからだ。

最後まで諦めなかった人には僥倖が待っている。もちろん、突き進めた道の延長線上の夢が叶うことは素晴らしいが、多くの場合、この僥倖は挫折と共に訪れる。限界まで行った人間は、そこで己の素質、才能の限界と否応なしに直面する。過去、10秒の壁の厚さを思い知らされた日本人スプリンターは数知れない。しかし、彼らには確実に別の世界の扉が開く。限界まで行った者だけが次の世界の入口を発見し、通り抜けることができる。それがブレイク・スルーだ。

子供は数多くの小さなブレイク・ポイントを経験し、成長していく。それを「どうせ、俺の子だから…」の一言で、その機会を奪っているとしたら、子供にとっての不幸である。我々大人は、子供たちに最大の努力をさせる環境、言い換えれば、ブレイク・ポイントを迎える環境を提供する責務がある。素質は誰にも把握できない、言ってみれば「神の領域」である。それならば、そんなものは神か天に預けてしまえばよい。そうして子供たちがブレイク・ポイントやブレイク・スルーを迎えることが出来たとすれば、そこから得られるものは(不遜な表現を承知で言えば)「素質」などと言うちっぽけな「神の領域」を超える。

「健全な競争」は(子供に限らず)人がブレイク・ポイント、ブレイク・スルーを迎えるために絶対に必要な周辺環境の一つである。

さて、今の公教育に「子供たちにブレイク・ポイントを迎えさせる環境」が整っているかと問えば、残念ながら甚だ心許ない。前述のように、私の目には「事なかれ主義が蔓延し、子供の成長の芽を摘む環境」としか映らない。ただ、公教育現場の教師達に多くを望むのは酷というものであろう。現場には子供たちの成長を願い、真摯に情熱を傾けている教師達が数多く存在することを私は知っている。これは公教育というシステムそのものが内包している機構としての限界と理解すべきであろう。ならば、公教育の不備を嘆くよりも、その足りない部分を家庭がいかに補完するかを考えることの方が建設的である。

ブレイク・ポイント(スルー)を迎えるまでは、子供たちにとって辛く、苦しい日々だろう。ややもすると、すぐに挫け、諦めようとする。その時、子供たちを支え、励まし、寄り添って歩んでくれる大人の存在は絶対に必要である。

誤解を恐れずに断言する。合格した学校の名前で人生が左右されることはない。しかし、そこを目指して本気で取り組んだかどうかで人生は大きく変わる。受験という辛く苦しい日々を挫けず、諦めずに歩んだ子供は、不合格の時ですらブレイク・スルーを迎えることができる。悔し涙の向こうに新たな世界が開けている。繰り返すが、ブレイク・スルーは挫折と共にやってくるのだ。