坪木の【新】教育論③:集団指導塾の限界

かつて、塾といえば学校と同じ集団指導でした。一人の先生が教壇に立って複数の生徒を指導します。その内容も学校授業の復習が主であり、いわゆる補習塾がほとんどでした。学校で習った内容をもう一度説明し、ワークで演習する…その答え合わせと解説が授業の中心です。

日本が総中流社会として成立していた頃は、子どもの教育(学習指導)はこれで充分でした。総中流社会とは、国民の9割が中流と認める社会です。言葉は悪いですが、残り1割の「落ちこぼれ」にさえ入らなければ良かったのです。当時の子どもたちが親から言われていたことは、「クラスでトップ、学年でトップとは言わない。せめて平均点くらいは取ってきなさい」です。平均点さえ取っていれば、落ちこぼれにならないという安心があったからです。当時の日本は、「まあまあの成績を取っていれば、まあまあの企業に就職でき、まあまあ幸せな人生が送れる」という神話が生きていました。そうした時代には「平均点を目指す補習塾」が社会の要請だったのです。

ところが近年、総中流社会の崩壊が実感されてくると、子どもに必要な教育にも変化が生じます。均一的な教育・指導ではなく、「その子にとって最も相応しい学習は何か」と改めて考えた時、それまでの集団指導の在り方に疑問を持つようになりました。

集団指導では成績上位者から下位の者まで同じ指導をすることになります。ターゲットは平均点です。すると、成績上位の生徒には無駄が、成績下位の生徒には無理が生じることになります。たとえ成績別クラス編成をしたとしても、この弊害から完全に逃れることはできません。成績上位者は学校授業で一度学べば、その内容を理解します。あらためて塾で説明を受けるのは無駄になります。本来は、より知識や技量を伸ばすための時間が必要なのですが、集団指導ではその時間が提供されることはありません。授業をつまらなく感じ、勉強に対する意欲も低下します。これでは塾を利用する意義すら失ってしまいます。

成績不振者にとって、学校授業でも理解できないことを塾での短い時間の説明で理解できるようにはなりません。なぜなら理解できない根本的な原因は、今の学習内容にあるのではなく、過去に習った内容の理解不足にあるからです。基本が分かっていないのに、いくら繰り返し「今の学習内容」を説明されても、理解できるようにはなりません。結局、分からないまま時間を消費してしまいます。

集団指導では宿題も共通して出されます。成績不振者にとって解けない問題が多く出されます。解けないから白紙のまま次の授業に出席することになります。すると…宿題をやっていないと叱られてしまいます。こんな理不尽なことはありません。当然、塾が嫌になり、勉強が嫌になります。これでは本末転倒です。

塾という教育補完機関は、出来る子はより高度な内容を、出来ない子には基礎からじっくりと…つまり、全ての子どもたちに「成長」を実感させる「場」でなければならないと考えられるようになりました。そして、そこから生まれたのが個別指導です。