坪木の教育論⑧:競い合うことは「悪」ですか?

現在の学校(公教育)現場では順位をつけることはいけないことになっている。差別やいじめを助長するというのがその理由だ。どこの小学校でも運動会の「かけっこ」は同じ走力の子供同士で組を作る。大きな差が見えないようにする配慮だ。中には、手をつないでゴールさせる学校もある。学芸会の劇でも、クラス全員が平等にせりふを割り当てられ、「主役」はいなくなってしまった。卒業式の答辞は卒業生全員で行うのが主流だ。中学校では、かつてどこの学校でも見られた成績上位者の発表は姿を消し、順位すら公表しないところもある。それどころか、定期テストそのものを廃止してしまった学校も少なくない。今、議論になっている全国統一学力調査についても、文科省・自治体はその結果の公表には消極的である。

人類や社会の進歩のためには健全な競争が不可欠なことは歴史が証明している。ところが、学校現場では妙な「平等感」が幅を利かせ、子供たちの活力や意欲を減退させている。競うことは人間が持っている本能の一つだ。もちろん、それぞれが本能のままに生きたのでは社会生活は成り立たない。それを理性で抑制することが必要であり、それを教え、身に付けさせるのが「教育」の役割だ。今の学校ではその役割そのものを放棄し、競い合いを否定することによって無気力で努力をしない人間を作っているとしか思えない。

かつて、子供の数が多かった時代には生活の中に競争が溢れていた。子供たちは遊びを通して、あるいは家庭の中で自然と競争意識を育てた。しかし、現在の少子化の中ではそうはいかない。遊びは「一人遊び」が主流となり、それも何度でもリセットが可能な「ゲーム」が中心だ。当然、忍耐力がなく対人関係が苦手で、すぐに人を傷つけ、すぐに傷つく、ひ弱な人間が多くなる。

「健全な競争の場」が子供たちにはもっと必要だ。子供たちが活き活きと、そして堂々と競い合い、勝者を称え、敗者の健闘にも惜しみない拍手をする。そんな環境が子供の努力(努める能力)を育て、人格を向上させていく。今の公教育では「事なかれ主義」が蔓延し、どこからもクレームがこないことを至上命題とした運営がなされている。

小学校の頃、クラス対抗リレーの選手に選ばれて嬉しかったこと、暗くなるまで校庭でバトンパスの練習をしたこと、スタート前にすごく緊張したこと、優勝して感激したこと、転んで悔し涙を流したこと…。あなたにもそんな経験があるのではないだろうか。それを大切な財産として懐かしく思い出すことが…。

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